だらだらと過ごす

2004年9月23日
…前日の泊まりで、雨の中帰り、濡れた物を乾かしたりする作業をしたあとはもうだらだら。

寝て起きて寝て
なんだか記憶が曖昧になってるんですが、夕方の疲労は凄かったです。数秒目を閉じた(という感覚)だけで、30分くらい過ぎるんですよ。さすがにこれには驚きました。

暗記
西洋美術史のための暗記をやっていました。長々とした文章をとにかく覚える。西洋美術史のテスト内容はそれを書くだけで良いので、暗記を得意としている僕には楽なテストです。
真剣にやると、数時間で覚えられました。ちなみに、覚えた文章は

ピカソは、1912年に用い始めたコラージュで、分析的立体派をこえて彼のみちを一歩踏み出した。「びん、グラス、ヴァイオリン」はコラージュのシリーズの内でも最もすぐれた自在な作例であろう。新しい技術の特徴を備え、これらの作品をつくるにあたってのピカソの目的が明白に出ている。
 この作品は、びんとかグラスとかヴァイオリンといった日用品、それに実際の新聞紙の一片を使ってできた静物画である。ピカソはこの新しいスタイルを、たまに人体頭部に用いたが、主に静物に適用したということを指摘しておこう。ここで再び、基本的なフォルムという問題が彼の興味の中心になってきているのである。
 しかし、その問題はまったく新しい手法で処理されている。分析的立体派の作品でもピカソはフォルムをそれぞれの要素に還元した。それを小さな構成要素に解体し、そしてブロックを積み上げるようにして、空間における諸物の新しい秩序を画面に創造したのだった。短く素早いタッチを入れて各々の面をおき、あるいは交錯させながら、彼は結晶体の明晰さをもった構造を得たのだった。そこには知的な厳しい規律があった。今、立体派の分析的な段階も終わりにきて、彼はまったく対立的な手法を手がけている。フォルムの要素は、やはり厳格であるがそれ以上にリリカルな作品をうむための出発点と化しているのである。
 フォルムを要素に解体する代りに、彼は要素そのものから出発し、それらを日常見られる物へ変貌させるのである。また、タッチを置くことも、色を重ねることも止めて、より以上の客観性に達している。その代りに、フォルムの要素は、作品の中で既製品の断片となって登場する。新聞の切り抜き、壁紙、木目を印刷した紙―――。日用品から借りたこれらの断片は絵をこえた世界を再現する。そのための構図は非常に自律的に、固く結合されうるので、絵とは無縁をも織り込むことができる。カーンワイラーの言葉をかりるなら《彼は絵筆を巧みに使わないでも描くことができる》のである。こうして、新聞紙の切れはしはびんとなり、木目を印刷した紙はヴァイオリンとなる。木炭のしっかりした線が走ると変貌は完成し、無縁に見えた素材は一つの合体へ統合される。
 ちょうど同じ頃、詩の方でも同様の転換期にあり、詩に身近な日常語を使い始めていた。このように、最も基本的な非人間的なフォルムをもった生の素材を統合することで、ピカソは新しい展開を生みだして行く。コラージュは統合的立体派への第一段階を示すものであった。

というものです。前半乗り越えたらあとは割と楽な文章でした。

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